【常陸大宮市】 緒川の百観音洞窟群
常陸大宮市緒川の百観音を見に行ってきた。
百観音は常陸大宮市緒川の川向男体山の中腹にあり、この山に点在する観音像が100体あることから百観音といわれる。
また、この山には無数の洞窟が存在し、謎の多いミステリーチックな雰囲気を醸し出している。
案内板↓
駐車場に車を停め、しばらく山を登ると洞窟が!
この洞窟は「観音洞窟」といい、洞窟の長さは約10mくらいでけっこう奥行きがあり両側には無数の観音像がズラリと並んでいる。まさにミステリー。
(この洞窟の由来について詳しい詳細についてはあとに書く。)
前回の日立の洞窟探索で巨大なゲジゲジを見てしまったので今回はかなり警戒した(;´∀`)
観音洞窟内部は電気照明がついていて明るいので、恐怖心は無い。
この仏像たちは比較的あたらしく文化6年(1808年)に彫られたもので、那賀郡在住の小森清蔵という者が地域の有志に寄付をつのり、山のいたるところに観音像安置したものであるという。
しかし洞窟自体はそれより古来からあるもので、諸説あるが中世の常陸国の戦国武将佐竹氏が採掘のために掘った穴で、そこに後世になってから観音像が安置されたものであるとか。
つまり中世佐竹氏の採掘場跡を、江戸時代に観音洞窟としてリサイクルしたと。
奥に行くにつれだんだんと狭くなっていく。
幅が大体1メートルも無いかというところ。
途中に段差があり、若干下る。
観音洞窟最深部には大日如来が鎮座している。
お賽銭をあげてきた。。。。
その他洞窟
―― 猪穴 獅子穴 ――
この洞窟は「猪穴」または「獅子穴」という。
奥底に溜まっている水はミョウバンを含有し白濁しているらしく、この水をくみ取り入浴すると成人病によく効くとの言い伝えがあるのだとか。
しかし、どう見ても狭すぎて入れないけれども・・・・。 ┐( ̄ヘ ̄)┌
―― 安産の守り岩 ――
この洞窟は垂直の竪穴で、穴というより亀裂というか、割れ目というか。
ずっと見てると、心なしかだんだんと女性のアレがぱっくりと開いたようにも見えるような、見えないような・・・・・`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォ この奥が胎内という事なのだろうか。
ああ、もしかして命名したのは光圀か?また光圀の仕業か~?
自分は安産しませんが拝んでました。`;:゛;`(;゚;ж;゚; )ブフォ
女性のアレにも見えなくない?? 割れ目の入った竪穴洞窟 ↓↓
―― 巾着穴 ――
「巾着穴」の名の通り、出入り口がすぼんだように狭い。
前回の日立の洞窟探索で巨大ゲジゲジのトラウマが抜けきっていないので、入らずにパスしてしまった。化け物がいても狭くてすぐ逃げられないのがねぇ~・・・ρ(-ε- )イヂイヂ
内部は6畳の広さという事で、わりと広い空間のようだ。
勇気のあるものは是非チャレンジしてほしい!勇敢なもの出てこいやー!(他力本願)
山頂付近の竪穴洞窟
山頂付近には2つかそれ以上の竪穴があった。
穴がわりと綺麗な円形で、とても自然にできた物とは思えないが。
懐中ライトで奥を照らしてみたがかなり深そうだ。
―― 山頂付近の竪穴(1) ――
―― 山頂付近の竪穴(2) ――
山頂には展望台が。
木々が邪魔で見晴らしがあんまりよくない・・・・。
動画
百観音の歴史的由来について
― 緒川の百観音歴史的由来について ―
さて、百観音の歴史については「緒川村史」と「おがわの文化第17号」に詳しく書かれているので、こちらをそのまま引用する。
↓ ↓ ↓
百観音 / 参考文献:『緒川村史』百観音は、大字那賀字川向男体山の中腹にあり、ところどころに凝灰岩が突出している。ここの岩蔭各所の洞窟にニ基あるいは三基くらいの観音像が安置してある。その中央に、間口約二メートル奥行約一〇メートルの横穴を穿ち、その両側に四〇基ほどの観音像が安置されている。奥の院には大日如来の御尊像が静座している。全山に点在している観音像の数を併せると一〇〇基あるところから百観音といわれている。 この百観音は、文化六年(一八〇八)那賀在住の小森清蔵という盲目の人が彫ったもので、そのために、ひろく地域の有志から多額の寄付を募って、諸国にある有名な観世音一〇〇基を刻み安置したものである。この横穴の脇に、俗称「獅子穴」という洞窟があり、その奥底にはたくさんの水を貯え、水質は明礬(みょうばん)を含有し白濁色を呈している。この水を汲み取り風呂を沸かして入浴すると、成人病(高血圧)によく効くと語り伝えられている。また、この付近に鐘つき堂があったといわれているが、現在では岩を穿って鐘を吊るしたと思われる穴の跡が認められるだけでむかしの面影ほ残っていない。 百観音の祭日は、春秋二回彼岸の中日で、近郷近在の老若男女大勢が参詣して大いに賑ったが、最近では参詣客も減少している。この観音像を造立した清蔵は、自分の墓所として百観音真向かい上台高見というところに小廟を建立し、辞世「我ならば何を頼りに立寄らん心残しておたまや」と記しこの世を去った。今なお現存しており、昭和一八年に地元の人びとが一堂を建立して盛大な追悼式が挙行された。また、古老の一説によれば、当山には数多くの横穴、縦穴があり、おおむかしの先住民族が矢の板石、火打石等を採掘するために掘った穴でり、その穴を改修して観世音を安置したものだという説もあるが、他の一説には、佐竹氏全盛のころ、この地も佐竹領となっており、砂金採集のため発掘した横穴縦穴という説もある
(古老の回想録) 史料:おがわの文化 第17号
百観音によせて 那賀 久和野 勇 / 出展:『おがわの文化 第17号 1990年3月出版』ひがん参りか百観音に 村のむすめのはれすがた (小瀬音頭の一節)昔は春と秋の彼岸の中日に祭りがあった。若草萌える、のどかを田園の農道を、咲き始めた菜の花にたわむれるモンシロ蝶をながめながら、近郷近在の若い人たちで賑わったものだ。 高名の洞窟前の広場では、那賀部落青年会の若衆たちで、お札・ローソク・線香・寅印の小マッチなどを売るやら、かたわらでは「ショイカゴ」でもち上げただろう吉成菓子屋のおじさんが、だ菓子・あめ玉・ブリキのおもちゃ・クジ引などで子供たち相手に商いをしていた。洞窟のそばには見晴し台があり、部落の点在するわらぶき屋根、曲線的な田んぼ、遠く右手に小舟富士の可れんな姿が眼下に展開した。現在では見晴らし台も、風雨にさらされ朽ち果ててしまった。昨年三月、孫一史(かずふみ・五才)を連れて訪れたが、杉など鬱蒼と木立の間から眺める部落の尾根も色とりどりに変り、田んぼも直線的に基盤整備され、時代の流れが目に見えてわかる。伝えられるところによると、文化六年というから約一八〇年前、石工の小森清蔵さんが、※平癒祈願のため観世音菩薩の像を刻んで洞窟に安置したと聞く。 ちなみに訪れた折、スケッチをし、像を調べたところ、右手の観音像には「文化九年甲」と刻まれており、奥にある一体の観音像には「上小瀬・小森云々」と刻まれた跡がうかがわれた。 右手に一八体、左手に十七体、それぞれ異る観音像であった。洞窟の前に四体合計四十体であり、そのほか洞窟以外に散在し百の観音像といわれている。私もおりを見て百観音山を散策して調べてみたいと考えている。また四十年前の頃は那賀の田んぼには、二毛作として「なたね」を作り、食料油・油カスを肥料として物資不足の補給としては貴重を存在であった。
部落では下河戸に久和野正一さん、上台には吉田寅吉さんの二軒が油絞りをやっており「油屋さん」と親しまれていた。わが家でもおばあさんが、木綿の風呂敷につつんだなたねを、背中にヒッチョツて頼みに行った後姿が思い出される。収穫最盛期には油屋さんも大忙しさであり、頼まれたなたね絞りを次々に処理されるが、三~四日はかかったと記憶している。 絞り機も現在の機械化時代と違い、キリンや挺子を利用した太い材木の端に、重い石を三つ四つぶら下げて絞る。今思えば原始的でチャチな機械といい切ってしまえばそれまでかも知れないが、当時の機械としては生活の知恵のはしりとして時代に即応したものだったと思う。出来上った頃、みはからって、とりに行くと大きを鉄鍋で妙るなたねのこうばしい匂いが漂っていた。
なにがしの工賃を支払い、一升瓶に詰めた油と油カスをぶら下げて大事に持ち帰ったものだ。油の利用といえば、旬の茄子の「シギヤキ」などいためものが多く、家庭の主婦は大事に使った時代でもあった。現在村の活性化対策にリゾート地(百観音ふる里公園)として、大きくクローズアップされ、着々と開発工事が進めら
れている。望ましいことで村おこしの成功を願っている一人である。時代と共に歴史は動き、歴史はその世代、世代に伝えられ文化の発展につながって行って欲しいものである
という事で引用が長くなったが由来についてはこんな感じだ。
昔は祭りが開かれたりとずいぶんと賑わっていたようだが、しかし現在はどうだろう。
平日という事もあるけど、誰ひとりとしていませんでした(;´∀`)
観音洞窟はなかなか素敵だけれども、入口も分かりづらいし(看板が少ない)、山頂に上っても何も見えない展望台。苦労が報われない(-_-) あれじゃ、どうせ上っても何も見えないからやめよう、って登る意欲がなくなるだろう。岩の説明板もぐにゃぐにゃでくたびれた感じ。ほったらかしにしてる感が否めない。
いや根本的に、こんな洞窟が緒川にあるのか知っている人がいるのかも微妙だ。史料で語っている久和野さんが願っている村おこしの成功とは程遠いのが現状だ。
これじゃ、せっかくの謎多きミステリースポットが勿体ないので、くたびれた看板を交換するとか、展望台が見やすいように枝を剪定するとか整備してほしいと思う。
という事で、
緒川再発見!
ぜひ百観音へおこしください~~ ( ̄▽ ̄)ノ